【セントライト記念2026】レース名の由来となった日本競馬初の三冠馬セントライトの生涯と秘話
2026年9月13日、中山競馬場で第80回朝日杯セントライト記念が行われます。芝2200メートルを舞台に菊花賞への優先出走権を争うこの重賞の名前は、1941年に日本競馬史上初のクラシック三冠を達成した名馬、セントライトに由来します。
セントライトはどんな馬だったのか
セントライトは1938年4月2日、岩手県雫石村の小岩井農場で生まれた黒鹿毛の牡馬です。父はダイオライト、母はフリッパンシー。馬主は加藤雄策、調教師は田中和一郎、主戦騎手は小西喜蔵でした。
母フリッパンシーからは、セントライトのほかにもタイホウ、クリヒカリ、トサミドリなどの活躍馬が誕生しています。セントライトは、当時の日本競馬を支えた小岩井農場と下総の血統を結びつけた存在でもありました。
デビュー前は高く評価されていなかった
興味深いのは、デビュー前の評価が決して高くなかったことです。同じ厩舎には、仕上がりの早さや見栄えから高く評価されていたブランドソールがいました。一方のセントライトは、体が大きく、スマートというより少し鈍重に見える馬だったといいます。
1941年3月15日のデビュー戦では12頭立ての7番人気でした。しかし、レースが始まると2着馬に5馬身差をつけて勝利。周囲の評価を一気に変える走りを見せました。
東京優駿を8馬身差で圧勝
続く横浜農林省賞典四歳呼馬ではミナミモアを3馬身差で退け、その後も中山のレースを連勝。東京優駿では、重馬場のなか道中3番手から進み、最終コーナーで先頭に立つと、直線で後続を一気に突き放しました。
2着ステーツとの差は8馬身。春の大一番を圧倒的な内容で制し、三冠達成への道を大きく前進しました。
大きすぎる馬体をめぐる逸話
セントライトには、競走馬として走る以前に、登録そのものをめぐる逸話があります。当時の日本競馬会には、体高164センチを超える馬を登録できない時期がありました。セントライトは東京優駿出走時の体高が166センチあり、規定の撤廃がなければ中央競馬で走れなかった可能性もあったのです。
当時としては非常に大きな体格で、推定体重は500キロ以上。見た目はスマートなタイプではありませんでしたが、その頑丈な体は長い競走生活を支える武器になりました。
普段はおとなしく、レースでは闘争心を発揮
セントライトは普段、とてもおとなしく扱いやすい馬だったと伝えられています。競走前の装鞍所やパドックでは、眠っているように見えることもありました。
ところが、発走の瞬間になると別馬のように集中。レースが終われば、何事もなかったかのように食事をしていたといいます。競馬になると強い闘争心を見せ、特に競り合いでは簡単に負けない馬でした。
京都遠征の際には、現在のような馬運車がない時代に貨車で2泊3日の長旅を経験しました。それでも到着後は大きく消耗した様子を見せず、輸送にも動じない頑強さを持っていたとされています。
京都で日本競馬初の三冠を完成
秋の三冠最終戦に向けた京都遠征では、輸送直後の前哨戦でコクチョウに敗れました。しかし、その敗戦を経て調子を上げ、最後の京都農林省賞典四歳呼馬ではミナミモアに2馬身半差をつけて優勝。
1941年、セントライトは日本競馬史上初のクラシック三冠馬となりました。デビューから三冠達成までに要した期間は225日。通算成績は12戦9勝です。
72キロを背負う前に現役を引退
三冠達成後は帝室御賞典を目指す予定もありましたが、72キロの斤量を背負うことが分かると、馬主の加藤雄策は無理に出走させることなく現役を引退させました。
引退後は種牡馬となり、オーライト、オーエンス、セントオーという3頭の大競走勝ち馬を送り出しました。1947年には、その功績を称えてセントライト記念が創設され、1984年にはJRA顕彰馬にも選出されています。
今週末のセントライト記念で思い出したい名馬
現在の朝日杯セントライト記念は、菊花賞を目指す3歳馬たちが争う重要なトライアルです。レース名の背後にあるのは、ただ速かっただけの馬ではありません。大きな体、穏やかな性格、長距離輸送にも耐える丈夫さ、そして走り出した瞬間に見せる強烈な勝負根性を備えた、日本競馬初の三冠馬です。
今年のセントライト記念を観戦するときは、出走馬の菊花賞への見通しだけでなく、80年近く前にこのレース名の由来となったセントライトの姿にも思いをはせたいところです。
参考:
JRA・競馬の殿堂 セントライト
JRA・2026年9月13日競馬番組
Wikipedia・セントライト
netkeiba・セントライト血統表
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